惜春の譜    作詞  永井隆    
     監修  鮫島盛一郎    
     作曲  山本敞(1C)
 富所正巳
 浦野周
   
     編曲  小川克郎
 横田恒都

   
     

             

  


一.   


はたぐも  
鰭雲遠き野にたちて 
      いのち  
帰らぬ生命惜しまれて
                  ゆ 
嗚呼 青春の日は逝かんとす

春を送りて鳥啼けば

君がまみにも涙あり
 

二.

夕つづ白き大空の
          おおわだ  
松吹く風は大洋の
                  のぞみ 
嗚呼 青春の日に希望あり
もくし  
黙示の色は深くして
はたて  
涯に我を誘うかな

 
 

三.

日吉が丘の宵空に
         
祖国の明日の喚ぶ声に

嗚呼 青春の日に気負いあり
ふがく 
富岳は何を語るらむ

若き血潮は湧くものを
 

四.
          はる 
友よ我が青春逝かんとす

友よ謳わん眉上げて
                  ほこり 
嗚呼 青春の日に矜持あり
     いのち  
若き生命の惜しければ
みとせ 
三年の春の意気の歌
 

 


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piano (編曲:横田恒都)
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1C 山本氏指導(2004年6月kstacOB総会)
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演奏する場合はplay(右向き三角)をクリックしてください。 演奏を止める場合はstop(四角)をクリックしてください。

2001年8月 CDになりました。
製作:慶應義塾大学理工学部同窓会
企画:慶應義塾大学理工学部応用化学科電気化学研究室OB会
    慶應義塾大学理工学部ラグビー部OB会
    慶應義塾大学理工学部山岳部OB会

←CDの表紙写真は1940年山本敞氏撮影(藤原工大予科会誌より)
  右下は旧制藤原工業大学の徴章


慶応理工山岳部の部報「嘯雲6号(1993年発行)」に掲載された、作詞者:永井隆氏寄稿「惜春の譜」と作曲者:山本敞氏寄稿「鰭(はた)雲の歌が出来たときの動機について」を以下に転載させて頂きます。

惜春の譜 永井隆

 「はたぐも」で始まる、この歌の由来は、今を去る五十余年の昔に遡る。
 塾員、藤原銀次郎翁の美挙によって、慶應義塾大学・理工学部の前進、藤原工業大学が創設されたのは、昭和十四年(1939)のことである。僅か三学科、学生数二百人足らずで、日吉の丘にスタートした大学ではあったが、藤原理事長、小泉信三学長を中心に新しい大学の歴史を自らの手で創り上げていこう、とする学生たちの心意気で湧き返っていた。
 翌年、創立一周年を迎えた自治会は、その記念祭歌を募集した。一回生として在学していた永井隆は、逍遥歌としてこの歌を作詞した。今にして思えば若気の至りとしかいいようのない稚拙なものだったが、国語の教員、鮫島盛一郎さんの監修を経て、これが選ばれて発表された。
 当時、山岳部員だった山本敞、富所正巳両君と竹道会員の浦野周君、この三人が寄り集まってこの詩に曲をつけた。作曲したと言っても譜を書いたわけではなく、三人が口ずさんだメロディーを口から口へと伝えて、歌は学生間に広がっていった。長い間口伝だったこの曲は、十四期生の小川克郎君によって、やっと採譜され今日に残されている。
 この歌はたんなる青春賛歌ではない。学園草創に向けて、いじらしいほどの青春の日々が過ぎ往くのを惜しんでいる歌である。そしてまた、すでに学園にも覆いかぶさってきた戦雲に、純粋な理想を追って学生生活を貫こうとする、苦悩のつぶやきであったとも言える。
 いずれにしても、この古めかしい逍遥歌を肩を組んで高唱した学友たちは、掛け替えのない仲間たちであり、この「はたぐも」の歌は、塾理工学部の輝かしい歴史の幕開けにふさわしい青春の歌だったのかもしれない。


鰭(はた)雲の歌が出来たときの動機について 1C山本敞

 此のへんは、もう少し哀調を帯びよう。此の所は今少しテンポをゆるめて逍遥風にしようと、自分が曲の音調をかもしつつ、冨所君(一期入学、機械44卒)にバイオリンを弾いて貰い、浦野君(一期入学、電気44卒)に尺八を吹奏して貰いつつ、自分がハーモニカを吹いて曲をきめて行った。新丸子のウドン屋で三人は親子ドンブリを食べて、九時頃まで冨所の家に集まって近く行われる中間試験のために、今日は物理をしようと集まったのだ。当時は学期末とか中間試験の準備にはクラスは異なっても、三人か四人で集まっては先生の講義を復習しては、試験にそなえたものである。
 その例にもれず三人は物理の復習に集まったのである。その時あたかも来る6月17日は藤原工大の第一回記念祭である。藤原さんと小泉学長が来て、大運動会を催し、各クラスは特別の催し物を出し、若いエネルギーでにえたぎる筈である。又その日に記念祭歌を皆で、と云っても一年と二年を合わせて三百人位のものであろう、予科会の主催で学校からも応援してもらって記念祭歌を募集した。沢山の応募者があったが、結局二年D組永井君(元慶應工学部教授、現明星大学教授)の「惜春の譜」が国語の鮫島先生を中心として選択して戴いて、入選第一位となった。先生にも校正して戴いたのが現在ある「はた雲」の歌である。歌詞は現在の戦時体勢の中にある学生の気分を十分伝えている。あと数日に迫っている記念祭のためにもどうしても曲を作らねばならない。誰も中間試験で目を丸くしている。曲どころではない。御承知の如く藤原工大の学期末試験はそれはそれは大変なものであった。一年から二年に昇級した時も沢山の落第生が出た。一学期に大不可を取ると、三学期の及第は非常に難しくなる。試験も大切だ。然し記念祭歌の詩があるのに曲がない。予科会委員会としてどうしても記念祭歌は成功させたい。良い詩があるのに、曲がない。専門家にはそんなにたやすくたのめない。いや吾々が作りたい。情熱こめて全て我同胞が作曲したい。冨所君の家を九時に別れて、私は東横線に乗り渋谷の大向通にある自宅についてのは十時半位であったろう。どうしても「惜春の譜」を作曲したい。もうこうなっては物理の試験はどうでもよい。腹をすえた。あらゆる高等学校の寮歌の曲を取り出す。静かに口ずさむ。青年の沈潜する心のほとばしりや、明日にも我々同級生の中にも兵隊に行く友を思いつつ、本当に複雑な心が曲に交錯して出て来る。行進曲は勇ましくてよいが、我々の心にはぴったりしなかった。
 それについて、藤原工大(慶應工学部の創立当時)は将来実利を中心として本当に役立つ人間を教育しようという藤原銀次郎先生の理想をつらぬく、固い信念により創立された。当時の金で一千万円の私財をなげうって創立した学校である。先生が常々学校に来て話した言葉は今も忘れない。「私は倒産しかけた王子製紙を零からもり上げ、あらゆる同業者と戦って勝ちぬいて来た。今七十才になり、総ての戦いをやめ、私には子供がいない。財産をもって死んでも仕様がない。私の総てを学校教育につぎこみ、諸君を私の孫と思い、沢山の孫のために余生を全力をもって此れに答えたい。」と云う言葉は創立当時と少しも変わらなかった。先生は長野県の安母里(あもり)村の生れである。私も長野県木曾谷の全校二百五十人程の小さな中学校の卒業である。此の言葉が新聞に出たとき、私の心を魅きつけた。官立の高校試験をやめて翌年受験して第一期入学生として入ったのである。此の理想を追求するにも、入って見て未開分野が開けていた。慶應大学は文化系統の先生が多かった。藤原工大の予科の進み方は将来エンジニヤになることは分明であった。それ故に文科系統をやることが如何に必要か、完全なる人格の全方位的に成長するには絶対必要ということで、塾の大学の良い先生の講義を受けた。有難いことであった。慶應大学の当時ドイツ、ゲーテ研究では彼の上に出る人のない、茅野蕭蕭先生に文化問題の特別講義を受けた。多くの学友が一時は理科よりも文科系統に心がひき込まれていった。カントの哲学、ヘッセの文学に心酔したものである。学校の授業が終わると、クラスの連中とスポーツをして、日吉町のしるこ屋、おでん屋に立ち寄り、色々の出来事や人生を論じ合い、次に多摩川園で東横電車を降りて、沢山の山なみのむこうに一際高く聳える富士に真っ赤な夕日が今沈もうとしているとき、多摩川を徘徊するのが常であった。肩を組んで放歌吟唱しては人生を語り、悩みを伝え合って家に帰るのが若者の所作であった。
 今時計は十二時だ。どうしても明日までに曲を作らねばならない。時間がない。物理の試験なんぞどうでもよい。一気呵成に作ったのが此の逍遥歌「惜春の譜」である。
 記念祭の日一年生と二年生が運動場に集合して、「鰭雲遠き野に
佇ちて・・・」を歌った。私は旗をもって皆の前で大きく振った。胸に厚いものが湧いて来た。歌い終わって、総てのエネルギーが一時に蒸発したかの様に放心したのである。

・筆者注
「鰭」(ひれ) 意味ひれ、魚のひれ、せすじ「背−(せびれ)」。辞書を見ると「はた」と云う発音はない。
「旗雲」 旗の様に一様にのびた秋の雲とある。
 故に、本当は辞書からすると、「旗雲」が正しい様に思われます。鮫島先生が黒板で説明して下さった時は確かに鰭の字を書いて「はたぐも」と言われたことを思い出します。

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